依存症かぁ…

午後は平野広朗さんの講演。
ちょっと難しめ&笑いが少ないけど、すごく刺激的な話でした。
たとえば、「オカマは差別か」をめぐる話。差別表現をめぐったやりとりは、ともすれば、「当事者の痛み」が「差別」ととらえられ、その「痛み」をめぐって是非を問うたり謝罪がなされたりという形に陥りがちです。でも、「当事者性」から離れて、その言葉が持つ意味について考察をし、その考察をめぐって是非を問う必要があるという提起です。つまり、「当事者」であるかないかではなく、ある考察が是であるか非であるかから判断をしようということです。
大切なことは、この提起は「当事者とは誰か」という問いも同時に持っているということです。
「当事者の痛み」というものは、基本的には「当事者」にしかわからないという資格の絶対性を併せ持つ可能性を大いに孕んでいます。これは、同時に「なにが差別化」という審判は当事者にしか負えないということにもつながります。
さらに、もうひとつ大切だったのは「抗議行動依存」というありようへの提起だと思いました。次々に「ネタ」を探して抗議行動をし続ける。そのことが、「当事者」としての存在証明になってしまっているのではないかという提起もとても大切だと思いました。平野さんには、こうした依存が「疲れ」を生み出した時、「自殺」へと走っていった友だちもたくさんおられたとか。そりゃそうだろうと思います。「当事者」を「常に差別される」存在としかとらえないところから、こうした「依存」が出現するのではないかと思います。
いま、自分がなにごとかの言葉を発する時に、こうしたブラックホールに陥っていないかどうかを常に点検する必要があるなぁと思いました。
もっとも、あたしゃ「運動」してないから、あんまりこういうのってないと思うけど(笑)。