中間総括から・1「しんどさを語ること」

夜に教員の総括。印象に残ったのは「司会をしている実行委員の生徒たちが、なんとか明るく軽くしていこうとしているけど、自分たちの経験をそんなふうにしゃべれるのか?」という提起。そりゃそうです。なにせ、オーバーステイや血縁関係にないから在留資格を取り消されて*1入管に収容とかいう経験までもっているような子らです。そんなに明るく語れるわけがないです。というか、他の場所ならともかく、「この場所」ならばそんなこと*2に気を使うことなく、しんどいことは「しんどい」と、素直に表現をしてもかまわないんじゃないかということなんです。
「しんどいことを明るく語る」というのがわたしの芸風*3ですから、これって逆行すると言えば逆行するのですが、たぶん、ほんとうにしんどいことはたぶんしゃべっていないんだろうと思います*4。なので、いまほんとうにしんどいと思っていることは、やっぱり明るくはしゃべれない可能性があります。それを無理に明るくすることは、たぶん不可能なんですよね。てか、きっと無理をしているのが伝わってしまうだろうと思います。それって、逆に痛々しいです。
今回の提起をされた方は、たぶんその痛々しさを感じとられたんだろうと思います。
「仲間」に対して、しんどさを隠さないということ、そのしんどさをマイナスに受けとめるのではなく、プラスに転化していける関係性(あるいは、「場」)って、やっぱり大切なんじゃないかなぁと思いました。

*1:日本の在留資格は「血統」に依存しています。なので、日本人と血縁関係があれば(たとえば実子)在留資格が認められますが、「連れ子」の場合は血縁関係がないので、たとえ親子であっても在留資格が認められないことがほとんどです。しかし、「家族=血縁」というのは、戸籍制度に基づく価値観であって、かならずしもこのような価値観は一般的ではありません。でも、入管はこれらをすべてひとくくりに「偽装」として、在留資格を取り消して、強制収容・強制送還の対象にすることがほとんどです。

*2:「明るくしなくちゃいけない」みたいな。

*3:というか、京都解放研の作風

*4:自分のことなのに「思う」というのは、自分では意識していないからなんですよ。