若年層トランスに必要なことは?

いま、兵庫県の小・中の先生方の間で、GIDのことにすごく関心があるようです。まぁ、当然といえば当然ですけどね。一方、新聞の影響もあって若年層、特に小学生段階でも自分の性別に疑問を持つ子が顕在化をしているみたいです*1。そんななか、先日突然、兵庫県の西の方にある街に漫談をしに行くことになってしまいました。
まぁ、漫談はいつもの通りで、それなりに和やかな会になったんじゃないか、と。
で、終わった後、ある人が小学生@たぶんトランスのことで相談に来られました。
やっぱり、直接かかわる人はすごくしんどいみたいです。一方で「えっ!」という驚き。そして、整理しようのない自分自身の思い。さらに、それでもサポートしたいけどどうすればいいかわからないというとまどい。
そんな気持ちをぶつけてこられました。
う〜ん。で、返したこと。
いつも思うことなんですけど、どんな発達段階であっても「なにが我慢できて、何が我慢できないのか」ということを明確にすることが大切なんじゃないかなぁと思うのです。もちろん、それって変化をしていくものだと思うのです。その変化に柔軟に対応していくというか、否定しないこと。あと、できるだけ実現できるようにすること。
「否定」や「実現の阻止」をされると、必要以上に「やりたい気持ち」が盛りあがってしまうように思います。そうすると、冷静な判断ができなくなります。なので、「実現する」ということ、あるいは「試すことができること」って大切なんだと思うのです。そんな中で、自分のありようと向かいあえる状況をつくることなんじゃないかなぁ。
あと、他のことでも言えることだと思うのですが、ある事柄に対して派生的に出てきたことについては、一般的な対応で効果がないかどうかを検討することも必要かな、と。
具体的には、トランジションにかかわって、他の子どもたちからいじめにあうようなことがあるだろうと思うのです。その時に、「トランジション」というところに原因を求めながら対応をすべきか、トランスであるないにかかわらず一般的な「いじめ」の問題として考えることはできないかということです。これは、簡単に言うならば、スポットを「いじめる側」にあてるということです。
まぁそんなことを、2時間ほどいろいろ話しあってみました。
いずれにしろ、「どうしていいかわからない」状態から、「とりあえず話を聞いてくれる人がいた」という安心感が持てるところまでは来られたようです。
相談の一番大切な意味は、実はそこなのかな。つまり、若年層トランスをサポートする人自身が楽になること。

*1:あくまでも顕在化であって、それまでは潜在化していたんだと思います。自分の表現方法を、とりあえず獲得できるようになったという意味では、あの連載は、すごく意味があったと思います。