温故知新…

その後、家に帰ったら一通の封筒が来ていました。そこに、ある本のコピーが入っていました。それを転載します。

人間社会の文化の程度が低い時代には、支配者達はその動機を少しも隠そうとしなかった。部落の酋長や専制時代の国王は、もっと強大な権力を得、もっと大規模な掠奪をしたいという簡単明白な理由から、露骨にかれらの人民達を酷使したり、戦争にかり立てたりした。ところが、文明が向上し、人知が発達して来るにつれて、専制主義や独裁主義のやり方もだんだんとじょうずになって来る。独裁者達は、かれらの貪欲な、傲慢な動機を露骨に示さないで、それを道徳だの、国家の名誉だの、民族の繁栄だのというよそ行きの着物で飾るほうが、いっそう都合がよいし、効果も上げるということを発見した。帝国の栄光を守るというような美名の下に、人々は服従し、馬車うまのように働き、一命を投げ出して戦った。しかし、それはいったいなんのためだったろう。かれらは、独裁者の野望にあやつられているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んで行ったのである。
現にそういうふうにして日本も無謀極まる戦争を始め、その戦争は最も悲惨な敗北に終わり、国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかもしれない。しかし、そう言って安心していることはできない。独裁主義は、民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。独裁政治を利用とする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗してじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変えて、自分の野望をなんとか物にしようとするものが出て来ないとは限らない。そういう野望を打ち破るにはどうしたらいいであろうか。

さて、ここで問題です。この文章の出典はなんでしょう?


実は奥付によると、

文部省著作教科書『民主主義 上』
1948年10月30日文部省検定済
著作権所有 著作兼発行者文部省
発行所 教育図書株式会社

となっています。
戦争体験から学んだ文部省は、次の世代のファシズムをこのように予測をしていたということです。そして、時代はその通りになっています。
でも、その歴史を、いまならばまだ変えられるかもしれない。その望みが残っている間になんとかしなくちゃ…。