教材づくり

3学期がはじまると、間もなく人権学習。といっても、1年間のまとめというか、2学期の振り返りというか。なので、2学期に生徒たちが書いた感想文とか質問文を「通信」という形で返すだけのことですから、たいしたことはないです。
それにしても、生徒たちは単刀直入な質問をしてきますね。「どうやったら差別はなくなるのですか?」みたいな。んなもん、わかるかいな(笑)。でも、それにこそ答えなくちゃならないわけです。で、わたしはわたしなりの考えは持っていますが、まだまだへたくそ。なので、2学期に講演に来てもらった人の言葉を借りることにしました。めっちゃいいです。

ここに、800人ほどの生徒さんがいるって聞いていますけれども、この中で、全員差別はあかんって思っているはず。でも、自分が優位に立ちたいとき、俺、あいつよりケンカが強い、俺はあいつより金持ちや、男前や。私はあの人よりもきれいや。自分が優位に立ちたいときに、必ず人を差別してしまう。
その差別というのは、俺は、正面切ってみるまでは、この体育館よりも大きいものやと思っていた。得体の知れんものやと思っていた。せやけども、ふと、差別と真正面から向きあうと、差別というのは、ちっちゃなもの。なぜかというと、すべての人間の心に入れるほどちっちゃいものなんや。人よりも優位に立ちたい、今俺は優位に立たないとあかんねやと思って、ものを言いたいときに、必ずその人の心の中に入ってくる。そんなちいちゃなもの。
俺は、そのちいちゃなものにおびえてきた。でも、これからは、そのちいちゃなものを消し去っていきたい。というのは、この中に、「俺は、ケンカ誰にも負けへんぞ」という人、「俺は力は人よりいっぱい持っている」という人、太陽を西から東に昇らしてみ、俺は頭賢いで、私は賢いでという人。今のこの時間で時間をとめてみ。そんなことはとってもやないけどできひん。それはなぜかと言うたら、自然やからなんや。でも、差別というものは、人間がつくったもの。人間がつくったから人間の手で崩せる。俺、そう思ってん。だから、こうやって、いろんな人に話を聞いてもらう。
さっきも言うたけども、差別というものは、されている側のものばっかりじゃない。しているものもいればされているものもいる。でも、されているものが、差別をしたことはないのか。必ずしたことがあるはずや。わしでもある。たとえば、女性に対する女性差別をしてきた人間や。障害者に対する障害者差別をしてきた人間や。俺が、そういうことに気づかされたのも、差別をなくそうという運動の中で気づかされた。だから、こんな勉強したってしゃあないやんけ、私ら全然知らなかったのに、丸田のおっさんが言うさかいに部落というものはこういうものやという見方をしてしまうやないかというかもしれんけども、自分の目で、はっきり部落というものを見てからものを言ってほしい。見もしないで、聞くだけで、こうなんやああなんやというのはやめてほしい。
今、差別を受けている側が、今度する側になるときがある。また、している側がされる側になるときがある。差別というのは、そういう形で人間の心を行き交うわけです。だから、今のままにしておいたら、差別というのは、なくならへん。
でも、こうやって話を聞いてもらって、みんなの心の中に、丸田という人間が恥ずかしい話をここへ来てしている。それはなぜなんやと言うたら、俺ら大人はもうええ。これからは、君らの時代なんや。君らがこの日本という国を支えていかなあかん。だから、君らにがんばってほしいな。せやからと言って、俺、手を抜くわけじゃない。俺も性根を入れてがんばる。でも、一人でやってたらたまに、しんどいときがある。もうええわって。でも、俺はいつも、こうやって真剣に聞いてくれるみんなの目を見て、ああ俺もがんばらなあかんなと思って、いつも学校を後にします。君らもこれから、いろんな人生を歩く中で、いろんな矛盾点やらいろんなものを感じると思うけれども、それを真っ正面から見て下さい。

しかし、すんません。いつも借り物ばっかりでm(_ _)m