新しいメディアはなにをもたらすのか?

わたし、別にメディアについておべんきょしているわけではありません。てか、お友だちの中には専門家もいるから、恥ずかしいわけですが…。ま、おべんきょメモって感じですねφ(..)


とりあえず「教育」を「知の伝達」とする。で、メディアを「伝達のためのツール」と考える。そうすると、例えば「学校という制度そのもの」は、実はメディアととらえることができる。
従来の教育は学校中心で進んできたけど、今、それが大きく変わりつつある。
てなあたりが、おべんきょのネタの問題意識のようです。


なるほど…。
で、センセ曰く。
「(伝達の)道具の変化」は、単なる「ツールの変化」に留まらず、「中身」や「意図」までも変えていく。
それは例えば

・筆と墨…訂正不可→完全な模倣を目指す

・石筆と石板…訂正可能→計算・答えあわせ・一斉テストが可能

・鉛筆とノート…蓄積と持ち運び可能→記憶と定期テスト可能

みたいな。
で、さらなるメディア革命は何をもたらすのか。学校が教育の中心とならない今の社会って?みたいなあたりから論議がはじまったのですが…。

やはり、わたしからの問題提起は「格差の拡大」でした。
おそらく他の「おべんきょ仲間」は「新しいメディアの可能性」みたいなところに目が行くんじゃないかなぁ。というのは、みなさん、若い!だけじゃなくて、「おべんきょ仲間としての均質性」みたいなところがあって、その均質性とはことなる人々のことをあまり知らないんじゃないかと想像できるんですよね。
に対して、わたしは「その新しいメディアへのアプローチの機会」の不平等がおこってしまい、結果的に格差の拡大へとつながるのではないかというふうに考えてしまう。で、念頭にあったのは、その真逆の話としての「教書無償化の闘い」がもたらした格差の縮小だったんですよね。


あと、メディアを「伝達手段」と捉えるなら、結局一番大きな影響力を持つのは「生身の人間」ではないかということ。「均質性」は、結局「つきあう人の多様性のなさ」に一因があるかと。逆に言うなら、「つきあう人の多様性」が担保される集団では「その集団の均質性」は起こりにくい。
で、いかにメディアが多様化しても、結局それがその集団にとっての「タニンゴト」であるとしたら、メディアの多様性を「均質性の損失」として使える集団との格差は広がってしまう。


てことは…。
いかにして「均質性を打破するか」ってことが、格差の拡大に抗うひとつの小さな可能性となりうるかもしれない。その時に、メディアの多様性を無自覚に「よいもの」「便利なもの」「可能性のあるもの」としてしまうと、先にも書いたように、その多様性へのアプローチの機会の不平等により、格差は拡大されてしまう可能性がある。
だからこそ、とりあえず「みんながガッコに来る」という前提で考えるなら、やっぱりわたしは多様なツールを使うのではなく、口先三寸チョーク一本の「ライブとしての授業」にこだわるなぁ…。
てのがオチですか^^;;。