テキストを身体化する

今日のおべんきょのテーマは「素読」ってやつでした。
とにかく声に出して覚える。完璧に覚える。意味なんてどうでもいいから覚える。そういう学習方法だそうです。
で、なぜそんなことをするのか。
おそらくは江戸期の儒学者にとって、漢文は外国語であると同時に「思考のための言語」「論議のための言語」であった。そういう言語を後天的に習得するためには、とにかく声に出して、リズムとともに覚え、身体化させる。そうしないと「言語」とはならない。なので、近世の儒学者はそういう方法で身につけていったようです。
で、現在も「素読」はあるんですけど、随分と意味が変質しているんじゃないかっていうあたりが、今日の論議の内容でした。
でも、今の素読も、おそらくは同じような意味はあると思うんですよね。というのは、意味はわからずとも、「そのリズム」で、とにかく読むことによって「その世界」が伝わってくる。例えば「平家物語」と「枕草子」。文字を追い声に出すことで「その時代・文化的背景」さらには「その世界」が目の前に広がる。
ただ問題は「よいリズム」で素読ができない。伝える側も「よいリズム」を知らない。そこに問題がある気がしました。


で、さらに論議は「いま、教員として何を伝えようとしているのか」ってところに行きました。


で、わたしの答は「世界の見方」でした。


おそらくわたしにとっての数学は、「わたし自身」なんでしょうね。そういう「数学が身体化された人間」が見ている世界の見え方を伝えるのがわたしの仕事かなぁと思っているんです。
もしかしたら、子どもたちにとって「いつきちゃん、なんでそんなふうに思うの?」ってなることはよくあるんじゃないかと思うのです。もちろん、トランスであることや、さまざまな人との出会い、あるいは育ち方など、要因は複雑に絡みあっているでしょうけど、少なくとも数学教員としては、「数学」という側面からそのわたしの世界観を伝えることで、「世界の見方の一方法」を伝えているのかなと、ふと思いました。