なぜ走るのか

夜、「某ショー」を見終わって、
「こいつら食ってばっかりやなぁ、うまそやけど」
と思いながら、次までのつなぎに、とりあえずN○Kにチャンネルをあわせて…。
と、いきなり山の中を走りまわってる人がいます。てか、崖じゃん。この人たち、なに考えてるんだ?
なにやら「ララムリ」という「走る民」の人々を取材した番組らしく、つい見てしまいました。
ま、考えたことがいくつか。
ひとつは、自給自足の生活に貨幣経済が入り込んでいること。そのことで、かえって生活は厳しくなっているかもしれないということ。だって貨幣経済なしの状態で「今年は豆が不作だ」となると「しかたない」としかならない。で他の何かを探してその不作をしのぐ以外方法がない。でも「今年は稼ぎが少ない」となると「ほなもっと働いて」とか「出稼ぎに」みたいになる。どちらがいいか悪いかはわかりません。たぶん、前者は死者が出る。でも、後者も死者が出る。単にうーんと思ったってだけのことです。
あとは…。
部族としての記憶かな。もともとは「必然」から走らなきゃならなかった。やがてもともとの必然はその必然性を失い、宗教的な意味を持つようになった。やがてその宗教的な意味をも忘れられ「走る」ことだけが残った。でも、走る。その「走る」もまた忘れられ「かつて走った民」となるのか、それとも走り続けるのか。番組は「走り続ける」みたいなところで終わってましたけどね。そこは「ロマン」ってやつなんでしょうか。
それにしても、その手の「記憶」ってやっかいかもしれません。すでに意味を失っていて、それそのものが自己目的化しているわけですから。もしもそれを変えたいと思ったら、自分はそこから出ていくか、出ていくのがイヤであれば、部族の「記憶」そのものを変質させなくちゃならない。
ちなみにわたしは毎朝駅の中を走りまわっています。こいつは…。理由はあってなきがごとしですね。