日常化へのアプローチ

朝、とにかくしんどい…。けど、出勤しなくちゃなりません。てか、足の小指に水ぶくれあるわ、筋肉痛はあるわ^^;;。
ま、それでもなんとか一日勤務を終えて、向かうは「京都シネマ」です。19日から一週間「凍蝶図鑑」の上映です。せっかく監督さんから直接メールをもらっているので、これは行かなきゃならんでしょう。


さてと。いきなり感想です。
とにかく「変態賛歌」の映画です。登場されるみなさん、変態であることに誇りを持っておられます。いや、「誇り」という、ある種の主張というか押しつけがましさというか、「前へ出る」感じじゃなくて、それを「あたりまえの自分」として一体化させているというか、そんな感じがします。
ただ、自分の中に少しの違和感が…。それは、すんごい簡単に言うなら
「みんな、アーティストやなぁ」
ってことです。みなさん、尖っておられます。さりげなく理論的な主張もうちに秘めておられます。あるいは情熱的です。それがまぶしい。
「あそこまでいかないと「変態」とは言えないのかなぁ」
「「変態」って、アーティスティックでなきゃならないのかなぁ」
とても特殊な、あるいは非日常空間がほぼ全編を貫いています。うーん。わたしのような平凡な人間はとてもではないけど「変態」とは言えんな。そう考えると、「変態賛歌」は、特殊な人のものであるような気がしてきました。


と、ふと気づきました。
アプローチが逆なんだ…。徹底的に非日常にこだわって、その非日常を日常的に生きていくアプローチと、徹底的に日常にこだわって、その日常に非日常を組み込んでしまうアプローチ。
おそらくは「凍蝶図鑑」をごく普通に見れてしまう人には「coming out story」は退屈だろうし、「coming out story」がしっくりくる人には「凍蝶図鑑」は刺激が強いかもしれません。
まぁでも、それは見たから言えることかな。で、京都の隣にある大阪にあそこに登場している人が生活をしていることを知ることは、とても貴重な経験でした。


あ、たったひとりだけ、アーティスティックではあるけど、とてもしっくりきた人がいました。「めばさん」でしたo(^^)o。
にしても、知ってる人がふたり出てるってなぁ(笑)。