「心の壁」とか「当事者性を持つ」とか

午後の出張は、私学と市立と合同の研究会でした。
つくづく「作法」が違うなと。
例えば「法律や制度が変わっても変わらないもの」が「心の壁」らしくて、その事例として「入居差別」があげられてます。これ、心の壁じゃないでしょう。てか、心の問題ではないです。
そもそも、差別に心を持ってくるのはアカンと思うのです。でも、学校教育だけでなく社会教育でも「差別をなくす心」とか「心の中に潜む差別」とか、「心」を強調する傾向があります。まぁ、差別を身近なこととして認識するためにそういう語りになるのかなとは思うのですが、それはアカンやろうと思います。
なので、「入居差別は「心の壁」ですか?」という質問をしようかと思ったけど、レポートを聞いていて疲れてしまったのでスルーしました。アカンのやけどね…。


で、次のレポートは某有名私学です。なんでも、SSHとかSGHとかやってはるみたいです。国公立にもガンガン行ってはるみたいです。みなさん、自主性を持って学校生活を送っておられるみたいです。たぶん、日本のリーダーを育成しようとされてるんでしょうね。海外にも行って他国の高校生とも交流をしたり、それぞれの国のニーズにあったものをつくったりしておられるみたいです。
なんでも、「貧困と災害をなくす」らしいです。そして「当事者性を持つこと、社会的弱者の立場に立つこと」らしいです。
は?「当事者を持つ?」
そりゃ当事者の子どもはいるでしょう。そしたら「持つ」じゃなくて「気づく」とか「とりもどす」でしょう。当然「「当事者性を持つ」ってどういうことですか?」と質問です。答えはまぁええ話です。でも、それは「当事者性を持」たなくてもできることです。例えば「主体性を持つ」でもいい。
もちろん「誰もが当事者」ではあります。でも、当事者を代わることはできない。ましてや、貧困とか社会的弱者の当事者性を持つこと他者にはできないし、そんなことをやると言ったら当事者から怒られちゃいます。てか「社会的弱者」ってなんだよ!あまりの上から目線にイヤ気がさしました。


まぁでも、うちの「作法」で鍛えられたし、ここにいてよかったなと、あらためて思いました。