少しの無理と、かなりの無理

玖伊屋の夜はバタバタしているので、ほとんど誰とも話をしませんが、朝はふと話をすることがあります。今日もそんな朝でして。
そんななかで考えたこと。
まわりの人にトランスを理解してもらうのって、すごくたいへんなことだと思います。ちなみにたいへんなのは「まわりの人」のほうですけどね。
で、カムアウトする側は、長い長い間我慢をしてきてようやく言うからきちんと伝えようとする。もちろん心の準備もきちんとして、ある程度の覚悟も決めて。ところが、受ける側は「ある日突然」です。
すると、「する側」と「受ける側」のキャパシティには当然のことながら差ができます。てことは、「する側」が「6割くらい」って思っていても、「受ける側」はキャパシティギリギリだったりする可能性があります。ましてや、「する側」が思いの丈をのべてしまうと、それは100パーセント近くになってしまわざるを得ません。となると、当然のことながら「受けとめきれない」となる可能性が高くなります。
これは双方にとって不幸かなと。だって、「する側」も「受ける側」も必死の思いなのに、それがすれ違っているからです。
じゃぁ、それをどう回避するかというと、「する側」が、「受ける側」の6割を見越して話をするしかないです。なぜなら、決定権を持っているのは「する側」だからです。
これ、たぶん「する側」にとっては、すごくフラストレーションがたまることだと思います。でも、そのフラストレーションを抱え込みながら、対話を途切れさせない営みを続けていれば、きっと「する側」と「受ける側」がともに「こんなもんか」と思える地点がくるだろうと思います。
「かなりの無理」は破壊につながるけど、「ちょっとの無理」は創造につながる。そんな気がします。