怒りのツイート

今日は保健部研修です。内容は「合理的配慮」だとか。
まぁ、大切なことではあるけど、法律が通ったからやらなきゃならんという、「何をいまさら感」が満載です。しかも、人権でやるのではなく保健でやるという、その発想がすでにうさんくさいです。そもそも、障害者差別解消法や、障害者権利条約の理念と反してます。
いちおう、昨年度末に「人権教育の分野ではそれなりに学習を積んでますよ」と言っておいて、講演集も渡しておいたけど、どれくらいわかってるだろうか…。
ついでに言うと、ここ「LGBTの子どもたち 〜「特別な配慮」から「合理的配慮」へ〜」なんていう文章を書いているヤツが同じ職場にいるんだけどね(笑)。
でも、仕事のうちなので行くことにしました。


講師はカイワイでは聞いたことのない人です。どうやら、センターの出張講座だとか。ふーん…。
レジュメを見ると「研究協議」とかあります。横を見ると、模造紙とかマジックがあります。ワークショップかよ!キライなんですよね。
講師の方は、なんでもこの4月からセンターに来られたんだとか。それまでは支援学校におられたとか。まぁ、「障害児教育」の専門家ということですか。それが吉と出るか凶と出るか(笑)。


スライド見ると、いきなり「あいすぶれーく」とか書いてあります。ひらがなですよ、ひらがな(笑)。いやな予感が頭をよぎります。てか、この職場に「あいすぶれーく」はいらんやろ…。


で、話がはじまったのですが、ブチ切れました。そのあたりはつぶやきましたので、コピペ(笑)。

今日の研修なぁ。
怒りのツイート開始!

タイトルは「合理的配慮を踏まえた指導・支援」。
合理的配慮について話をするのに、「医療モデル(個人モデル)」から「社会モデル」への転換という、わたしの理解としては一番大切な概念が、レジュメにも話にも出てこない。これだけで「なんじゃそりゃ」


[不当な差別的扱いの禁止」にかかわって、「正当な理由があればやむを得ず」と。そして、その判断の時に、学校という限界はあるにしろ「保護者は医者と相談して」という話。Nothing about us without usという言葉を知らないのか?


「先行研究を見ると」のスライドが「「みんな違ってたいへんだ」じゃなくて「みんな違ってみんないい」」って、どうよ。


結論が「障害のある人もない人も全員が活躍できる社会の実現」。
まるで「一億総活躍」だな。
そもそも「活躍」の中身は?
その「活躍の中身」を問い、価値観の変革を通して社会の変革を求めることこそが必要なんだろ?それをスルーして、こんな結論はあかんやろ。


ふぅ…。
まだまだあるけど、とりあえずおわり…。
あ、収穫。
いままで聞いてきた講演(牧口一二さんからはじまり、M井孝夫さんとか黄色いくまさんとかM永さんとか)が、いかにいい講演だったかということがわかったことは収穫だ。

でも、怒りがおさまりません(笑)。

結局、障害者差別解消法や合理的配慮の「歴史」や「思想」をすっ飛ばして、ノウハウだけの話。そしてそれは、学校現場のニーズとマッチしているということとつながる。
てことは、「当事者」を抜くとそういう読まれ方をされるってことなんだな。
たぶん、なんであってもね。
勉強になるわ…。


落ち着いて考えると、今日の講演って、結局「配慮することを通して「活躍する人」として取り込む」って話なんだよね。これは、障害者に対する同化なのかもしれない。
と考えると、メッチャこわい。
にもかかわらず、そんな話が職場で語られて「わかりやすかった」と。
善意による同化の加担。


そだ
一番大切なこと、一番腹が立ったことを思い出した。
結論で「心が大切」って言ったんだ。
こんなに障害者権利条約からの流れをねじ曲げる言葉はない。というか、流れの真反対にある言葉だよ!


という、怒りのおさまらない、障害者差別についての素人のツイートでございます。

その後、facebookでもいろいろやりとりがあったりしたけど…。
とにかく、障害者が、それこそ命をかけて闘いとった「権利」が、「配慮/ケア」へと矮小化され変質していくさまに直接触れた気がしました。
そして、これは同時に先のツイートでも書いたけど「なんであっても」起こりうること、であるということです。