授業の作法

この間、悩み深きあるセンセが、なぜかわたしの授業をヒントにしようとされてます。どうやら発端は、授業があまりにもうるさいので、そのクラスの生徒たちにそのセンセの授業についてのアンケートをとったところらしいです。すると、ある生徒が「怒鳴らなくても危機感をもたせる方法をいつきは知ってる」と書いたらしいです。なんかやったっけ?
でも、藁をもつかむ思いで見に来られた授業が、これまたやりやすい日で、一体感あふれた感じで、びっくりされたと。いや、その前の前の授業とか、みんな寝てたし(笑)。
でも、そのセンセ、ものすごく研究されてるし、準備も工夫もしておられる。どころか、子どもたちのアンケートを見たら「先生の授業は好き」って書いてます。だから、なんの問題もない。てか、問題があるのはわたしのほうのはずです(笑)。
そのセンセと話してて、わたしが留意していることを話すと「あぁ、一緒」ってつぶやかれてます。まぁ、だから見に来られたんでしょうけどね。でも、どこかでなにかが違うみたいです。それを、そのセンセは「人柄とテクニック」と言われます。が、テクニックはともかく「人柄」は違うでしょうね。そうなったら授業のよしあしは「人柄」で決まってしまう。そしたら普遍性もなにもなくなってしまいます。
で、つらつら考えていたのですが、子どもたちの前の「人柄」もまた「テクニック」なのかなと。
まぁ、基本、
「教壇は舞台!わたしは主演女優!あなたがたは観客!わたしの手のひらの上で踊るのよ!」
って考えてますからね(笑)。
役者である限りは、人柄もテクニックのうちでしょう。もしも、ほんとうに人柄があるとしたら、そのテクニックのさらに背後くらいの、かなり深いところなんじゃないかなと。
あとは「子どもであること」かな。そうすると、テクニックとしての人柄が前へ出てきます。喜怒哀楽ははっきりと。それも「I message」で。子どもは普遍化しません。するときは「みんなやってる」とかいう子どもの普遍化で、それに対しては「みんな〇〇したら、お前も〇〇するんか!」というアホな普遍化返しでおしまいです。
喜怒哀楽には、もしかしたら「びっくり」も入るのかな。そういや「おもしれーo(^^)o」は多用しますね。新たな知識や新たな気づきを楽しむ。子どもたちの小さな気づきを大きく育てて驚き楽しむ。
あるいは自分の疑問を徹底的に考えて、さらになぜその疑問を持ったのか、そしてなぜそれにその解答を導き出したのか。その過程も徹底的に考える。そして気づきに驚き喜ぶ。それは、子どもが「なぜ?」を繰り返してくることと似ているかもしれません。
そして、そういう演技をすることを楽しむということ。なぜなら、教室は芝居小屋だからです。
たぶんそんなことをやってるな。
あー、めんどくさいことやってるなー(笑)。