「問う力」による自己形成

この間、「木曜センセ」に、このブログ&エントリの存在をバラしちゃったしなぁ…。
まぁええか。
今回はいよいよ大詰め。自己形成にかかわる話です。
まずは、「問いの徹底性」という話。答えを求める問は、徹底性という要素を持ちようがありません。なぜなら答えが出た時点で終了だからです。しかし、「問い」そのものをつきつめていくと、「なにを」「どのように」「問うのか」ということは、徐々に意味をなさなくなるとのこと。
なぜなら

わたしは「xを」問う
→「わたしは「xを」問う」を問う
→「「わたしは「xを」問う」を問う」「わたし」を問う

と、問うことを進めていくと、問う内容はどんどん入れ子の中に入っていって、「問うことそのもの」や「問う主体」へと問う内容が移っていく。そして、その内容を深めていくことこそが、reflectionであると。
こうやって、自分自身を深めていくことこそが、自己形成であると。
ただ、このreflectionをするには、一定の「成熟」が必要とされる。自己形成が成熟を目指すものであるなら、トートロジーに陥ってしまいます。そこで必要なのが「教育」ですよ!
教育の果たす役割は、おそらくは「なにかを教える」ことではなく、その行為を通して、うしろからチョイと「自己形成という奈落(笑)」へと子どもたちを誘うことなのかな。
いや、なぜ「奈落」かというと、やっぱり「奈落」でしょう。だって、内省のない人生は、おそらくは自己肯定(≠自尊感情)と自己弁護の世界で、そこでは「わたしは絶対」な王国ですから。そこから「内省」へと踏み出すことは、一見、自己否定を伴うわけです。
まぁこのあたり、「批判と文句の違い」みたいな話と共通しているかな。
ただ、これだけではいけない。そこには「他者」の存在を必要とすると。
ただ、「他者」と言ってみたけど、実は、その他者は自己でもあると。「自即他、他即自」と。
あるいは、対話は必要なんだけど、対話は一般的には「dialogue」と捉えられるけど、「monologue」もまた「自己との対話」であると。
こうした営みは、学齢期に終わるものではなく、生涯続くものであると。
すなわち、「人間とは学ぶ動物である」と。そして、そこにこそ尊厳(自己肯定感や実感など)があると。
で、結びは
「問い→学び→尊厳」


うーん、今日はすごく格調が高かった。でも、フィナーレにふさわしい内容でした。ここまでの長い長いおべんきょ内容が、一本の道筋でつながった感覚がありました。
このあとカーテンコールが続きますが。